村の勇者

最近の若い男は、性への関心が薄いようだ。彼女もいなければ性体験も乏しい。一説には、アダルト情報へのアクセスが手軽にできるようになったのが要因だと言われている。確かに、淫語を入力するだけでいくらでも画像や動画が見られるのは、性への距離が近すぎてしまい、畏敬の念も薄れてしまうだろう。私たちの時代は違った。エロはそう簡単に手に入るような代物ではなかった。

男の子が性に関心を持ち始めるのが、小学5,6年生頃だ。私も例に漏れなかった。休日、友達数名が集まり、エロ雑誌収集作戦が決行されていた。「A君は北へ、B君は西へ、そしてC君は南へ。それぞれエロ雑誌が捨てられている場所へ向かい、5時にここに集合すること。では、健闘を祈る」。敬礼後、目的地へと各自散って行った。

収穫したエロ雑誌は皆で回し読みする。捨てられていた収穫物は、往々にして状態がよろしくない。雨で濡れ、その後乾燥したエロ雑誌は、よれよれに曲がっており、ページもひっついている。それを1ページずつ丁寧に剥がしていくのだ。運よく状態のいい物に出合えたら、大収穫である。雑誌に映る女性の裸写真を見ながら、「もしかしたら黒くモザイクがかけられている部分を消しゴムでこすったら、見えるようになるんじゃね」と言い、コロンブスの卵的な発想の転換だと信じて、穴があくまで消しゴムでこすったこともあった。

それだけエロ画像は私たちにとって手に入りにくいものであり、入手には心血を注いだものだ。当時の我々にとって、エロは英雄の証でもあった。新品のエロ雑誌を手に入れた者は称えられ、兄が見ていたエロビデオを拝借した者は仰がれ、父親裏ビデオを入手した者は村の勇者となった。そしてこれらの苦労は、性への憧れをより一層強くし、欲求を募らせた。

アダルト情報にいくらでもアクセスできる昨今、村の勇者になる機会を皆失ってしまった。いや、誰もが勇者になってしまったというのが正しいのかもしれない。そこには何の特別性も感じられない。勇者(男)は旅に出なくては一人前になれない。エロを求める旅が男を男としてたらしめるのだ。